人体改造工学において最も技術的な困難に直面するのが、生体組織からの流用部
品となる、大脳及び生殖機関の生命維持技術です。特に大脳は、人体改造もしく
は機械化を施された人が「人間」であり続けるためにも重要な器官ですので、そ
の生命維持装置−通称「ブレインポット」−の性能及び信頼性の向上が、改造人
間の存在価値に直結すると言っても過言ではありません。
改造人間の脳システムは、おおよそ以下の装置で構成されています。
(a) 大脳室
(b) 大脳生命維持装置
(c) 脳信号変換回路
(d) 脳活動補助用コンピュータ
2040年頃までには、上記の装置はコンパクトになり、人工体の頭部に全てを収納
することが可能になりました。またこの頃までには、脳システムは頭部収納サイ
ズでユニット独立性(単体での大脳生命維持・長期稼働が可能)を保つことが可能
となるレベルにまで到達しました。このような脳ユニットは特にバイオ・コン
ピュータとも呼ばれます。
(a) 大脳室
大脳室は、言葉通り大脳を格納する容器です。大脳室の内部は人工脳脊髄液で満
たされ、その中に人工脳膜で数重にカバーされた大脳が入ります。狭義では、こ
の大脳室のことを「ブレインポット」と呼ぶこともあります。大脳室の外壁は衝
撃吸収材で構成され、大きな振動及び衝撃から大脳を保護します。
時々、この大脳室が透明なガラスの様な容器で、大脳が液体の中に浮かんでいる
ように見えるものもありますが、このような透明な大脳室の場合でも、透明な人
工脳膜が使用されています。また、透明な容器も単なるガラスではなく、対衝撃・
電磁波・紫外線効果に優れた複合材が用いられています。
(b) 大脳生命維持装置
大脳室に入っている脳の生命維持に使用される装置で、「ブレインポット」の最
重要ユニットです。
本ユニットは制御用コンピュータ、大脳栄養供給装置及び栄養タンク、超長寿命
バッテリーにより構成されています。
大脳生命維持装置の中枢となる制御用コンピュータでは、大脳の状態を常に管理
し、栄養素・脳内物質の注入等の生命維持に必要な処理を的確に実行することが
要求されています。特に重要な項目は、制御用コンピュータが誤作動及び停止し
ないようにすることです。制御用コンピュータの異常はすなわち大脳の死を意味
します。初期の改造人間では、この制御用コンピュータの異常による脳死が頻繁
に派生していました。2049年には、M社の製作した制御用コンピュータの不具合
により、実に改造を施された人の50%が脳死状態になるという事故も発生しまし
た。現在では、大脳生命維持装置の制御用コンピュータは2個以上組込むことが
義務付けられています。
大脳栄養供給装置は、大脳の生命活動に必要な栄養素及び酸素を供給します。サ
イボーグでは、これらの要素はそれぞれ「食事」及び「呼吸」により摂取するこ
とが出来ます。機械化人間の場合でも、大脳生命維持用の栄養素及び酸素は外部
から取り込む必要があります。よく機械化人間が手にしているボトルには、これ
らの大脳生命維持様の栄養素が入っているのです。
これらの装置はいずれも、20世紀レベルから見ると信じられない位の低電力で稼
働しますが、それでも障害発生時等における大脳生存性を高めるため、電力供給
には超長寿命バッテリーが使用されています。電力供給源には燃料電池や、21世
紀初頭に開発された新素材バッテリーが使用され、その耐久力は、2050年頃には
無補給でも半年間の連続稼働が可能なレベルにまで到達しました。
(c) 脳信号変換回路
脳信号変換回路は、大脳と身体を接続するインターフェースの役割を果たします。
人体の改造及び機械化の研究の中で、脳に関する理解もかなり進みましたが、そ
れでも記憶や意識、創造に関する分野は完全には解明出来ていないのが現状です。
しかし、改造人間を開発する立場では、これらの機能はブラックボックスのまま
でも、脳と外部の間でやりとりされる信号を「翻訳」することが出来れば、人工
体の身体を動作させるのは可能です。そのため、人体改造工学における脳分野の
研究では、脳の完全解明よりも脳イベントの翻訳が優先事項となって発展してい
きました。
脳機能の理解においても、2020年代後半頃より、不完全ながらも記憶の操作が可
能になり、また大脳を加工し、コンピュータと接続することも可能になりました。
(d) 脳活動補助用コンピュータ
改造人間の脳システムは、上記のものだけでも成立しますが、一般的には脳活動
補助用コンピュータを用い、大脳の活動を補助します。このような脳ユニットの
ことを特に電子頭脳化バイオコンピュ−タ(電脳化バイコン)とも呼ばれます。
脳活動補助用コンピュータを組み込むことにより、人間の脳よりもコンピュータ
が得意とする処理 (膨大なデータの記憶や繰り返し計算等) をより効率的に実行
したり、熟練工なみの技術を行動ドライバとして身につけたり、言語機能を補助
することで複数言語を使用することが可能になります。
このような脳活動補助用コンピュータは、大脳とは別にコンピュータサブユニッ
トを設置するものと、脳を加工して直接脳組織と接続するもの(脳−半導体結合
モデル)があります。前者の場合は、脳イベント I/Oインタ−フェ−ス及び大脳
生命維持に関わる部分以外はあまり脳組織に手は加えられませんので、半電脳化
バイコンと呼んで区別する場合があります。
脳組織と半導体コンピュ−タを直接接続するように大脳を改造した脳ユニット
(脳−半導体結合モデル)は、普通の大脳に比べてよりコンピュ−タに近く、機械
化体との親和性も高いので、2040年頃より特に研究が活発になりました。また一
般においても脳改造への認知度が意外に高く、2060年代の人体改造ブ−ムの頃に
は人体改造時の脳改造が普通となるまでに浸透していきました。
脳−半導体結合モデルを用いた電脳化バイコンを開発する際に重要となる技術は、
ハード面では「脳圧縮」及び「脳細胞接続端子」、ソフトウェアでは「大脳プロ
グラミング」です。
脳細胞接続端子は、従来の改造人間に使用されている人工神経を更に発展させた
もので、マイクロマシンにより脳細胞との接続を可能にしたものです。その集積
度は人工神経のおよそ 10 〜 1000 倍にもなります。脳細胞接続端子を使用する
ことにより、脳細胞の組成に直接手を加えることが可能になり、大脳とコンピュー
タの同期がより確実になりました。
脳圧縮とは、脳そのもののサイズを小さくする技術のことを示します。改造人間
の頭部は、その容積の大半をブレインポットが占有し、ごくわずかな余剰領域に
大脳生命維持装置や感覚器官ユニットが詰め込まれた構造となっており、あまり
大型の追加ユニットを内蔵することが出来ません。そこで発達してきたのが脳圧
縮の技術であり、圧縮した分だけの容積を脳活動補助用コンピュータ等に多く割
り当てることが出来るようになります。
脳−半導体結合モデルが研究され始めた時期は意外に古く、大脳生命維持研究と
ほぼ同時期の2000年代より開始されました。これは大脳生命維持装置を改造人間
の頭部だけに収納させるために、脳システムを構成する各要素の体積を減らす手
段のひとつとして、脳圧縮や補助コンピュータの使用が考えられたのであります。
しかし、一般的に脳圧縮度を大きくする程、補助コンピュータによる脳機能補完
の度合を大きくしなければならないため、当時の集積度では脳圧縮度に見合った
補助コンピュータのサイズが頭部に収まらなくなる、という皮肉な結果も多く見
られました。それでも、2040年頃までには脳−半導体結合モデルの基本形は出来
上がり、またその有効性が認知されるようになると、補助用コンピュータの占有
率を更に大きくする方向に技術開発が進みました。同時に脳圧縮の度合も徐々に
大きくなり、2040年頃では元の脳の50%までの圧縮が限界であったのを、2070年
には20%まで圧縮させることが可能になりました。 (もっとも、最高レベルに圧
縮した脳では、補助コンピュータ無しでは脳として機能しないのがほとんどです
が) また、2050年以降の人体改造ブームでも、脳改造度を大きくすることが改造
されたことの「証」になる、という見方が広まり、脳−半導体結合モデルによる
脳改造は一層充実することになりました。
B ウィルス、つまり生物的なウィルスは、特に脳を入れておく容器であるブレイ
ンポットの開発を行う際に、細菌とともに対策が必要な問題です。ブレインポッ
ト内に侵入したウィルスや細菌の影響で脳細胞がダメージを受け、最悪脳死に陥
るケースがあるのです。
このような B ウィルス等への対策として開発されたものは、「大脳室清浄機」
及び「抗体機能付き人工血液」です。
(a) 大脳室清浄機
大脳生命維持装置には大脳室清浄機が組み込まれており、常に大脳室内の人工脳
脊髄液の成分の測定及び異常発生時の浄化作業を行っていますが、この装置には
細菌・ウィルス数を測定し、これを死滅させる機能も有しています。大脳清浄機
の開発は大脳生命維持技術の開発とほぼ同値と言える程重要な技術であり、人体
改造工学でも特に重点がおかれた分野でありました。その結果、細菌・ウィルス
が起因による改造人間の脳死は時代とともに大きく減少し、2010 〜 2050 年の
間は平均大脳生存年数が常に上昇し続け、2050年にはついに30年以上にまで到達
しました。これは実質「大脳室に入れた脳がほとんど死ななかった」とも言える
画期的な成果でありました。
(b) 抗体機能付き人工血液
改造人間でも、大脳(及び生殖器官)には血液が必要です。このような血液は生命
維持装置の造血装置により作られますが、造血装置で作られる人工血液には白血
球や抗体も含んでいます。造血装置は基本的に被改造者の造血組織を流用します
が、これを機械化人間用に大脳生命維持装置内に組み込めるようになるまでには
相当な開発期間を要しました。
3.2. C ウィルス・・・大脳に感染するプログラム
人体改造技術の発展とともに、大脳の改造もより盛んに行われるようになり、そ
の結果 C ウィルス、すなわちコンピュータウィルスが改造人間の脳にとっても
脅威になり得る、このような警告が21世紀初頭から既に述べられていました。け
れども21世紀前半の人体改造黎明期では脳改造はもとより人体改造自体が一般的
なものではなかったため、それほど問題にはなりませんでした。けれども2050年
代からの人体改造ブームとともに脳改造も一気に広まり、その結果脳に感染する
コンピュータウィルスが急激に増加していきました。
一口に改造人間の脳に感染するコンピュータウィルスといっても、その種類は以
下の3つに分けられ、下へ行く程その危険度が高まります。
・大脳補助用コンピュータに感染するウィルス
補助用コンピュータを有しない場合は危険性はゼロ
・生脳組織に「記憶」として感染するウィルス
脳改造により記憶管理回路を脳に組み込んでいる場合、危険性が生じる
・脳信号変換回路に感染するウィルス
変換回路がブラックボックス化(体内ネットワークに繋がっていない)している
場合は危険性はゼロ
・大脳生命維持装置の制御コンピュータに感染するウィルス
生命維持装置が完全オフラインならば危険性は無い。感染した場合は致命的に
危険!
これらのウィルスも、脳改造度があまり大きくない、または生脳部が生身とほと
んど変わらない(脳圧縮があまりされていない)状態では、それほどウィルスの危
険性は大きくありません。というのは、脳改造度の低い改造人間は、生身の頃と
同様の五感を保つようにつくられており、そのため生命維持装置や信号変換回路
はオフラインであり、これらの存在を被改造者(の脳)から認識出来ないようになっ
ております。また補助コンピュータを有していて、それがウィルスに感染したと
しても、脳改造度が低ければ、補助コンピュータの機能を全て停止させ、生脳の
みで行動することが可能になります。
ウィルスが問題となるのは、脳改造度が高く、補助コンピュータと生脳部が密接
につながっている場合、またはそれ以上に、補助コンピュータの脳補完機能が必
須なほど脳圧縮を行っているような状態のときであります。脳改造度が高い場合、
その脳を操作することは改造度が低い場合より容易であるため、悪意のあるプロ
グラムの作成もより簡単になります。
2060年代の一時期に、生脳・補助コンピュータ・信号変換回路・生命維持装置制
御コンピュータの全てを密接なネットワークでつないだ統一脳システムの開発が
急激に流行したことがありました。中には、生命維持装置制御と脳機能補助をひ
とつのコンピュータで行うものまで現れました。けれどもこのようなシステムに
感染するコンピュータウィルスのために脳システムの誤作動等が発生し、最悪で
は脳死に至る事件も多発しました。
脳システムのセキュリティを高めるため、以下のような方策が行われるようにな
りました。
・大脳生命維持装置制御用コンピュータをその他の脳システムからは直接制御出
来ないようにする (脳状態取得等のみとする)
・大脳生命維持装置は脳システムに2個以上組み込み、他の脳システムの状況を
監視し、異常が発生した場合に他のシステムをスリープモードに移行する機能を
持たせる
・信号変換回路はなるべくオフラインとする
・セキュリティに優れた OS を各種コンピュータに使用する
脳システムに感染するコンピュータウィルスの危険を減らすために、あまり脳改
造を行わないのが有効である、という意見もあります。しかし、人間の機能拡張
としての「人体改造」において、その脳機能も拡張するという流れを変えること
は既に不可能になっています。そのため、各種コンピュータのセキュリティ対策
を重点的に行うことや、障害発生時におけるリカバリー対策を万全に行うことが、
これからも脳改造分野における重要課題となっていきます。
(セミナー入口に戻る)